20歳長女と再会・高橋ジョージ(66)「パパは一人じゃない」に救われた10年間…孤独と後悔、そして新たな「ロード」の始まり
今年、20歳になった娘の誕生日を祝ったことで話題になったのは、ロックバンド「THE 虎舞竜」のボーカル・高橋ジョージ(66)。少し前まではこんな風に何気ない親子の時間を過ごすことはかなわなかった。 高橋は、1993年、THE 虎舞竜として「ロード」をリリース。Wミリオンを記録する大ヒットとなった。一方、プライベートでは、24歳年下のタレント・三船美佳(42)と結婚。2004年に娘のレノンが誕生した。おしどり夫婦としてバラエティー番組に出演していた2人だが、2016年、すれ違いがきっかけで2人は離婚した。 2014年から一人娘と会っていなかった高橋…それから10年、娘と感動の再会を果たした高橋ジョージに「No Make」が独占密着。そこで見せたのは、独り身の孤独を支えた、離れて暮らす娘への想いと元妻への懺悔。そして、2024年末に再始動を発表したTHE 虎舞竜のライブに密着。ロックと娘、自分が信じる道をゆく高橋ジョージの素顔に迫る。 「相手にとっては辛いことがいっぱいあったんだと思う」元妻への懺悔 11月1日、取材班は高橋の自宅を訪れた。 ――今一人暮らし暮らしですか? 高橋:一人です。もう11年くらい。 ――ご飯とかどうしてるんですか? 高橋:飯はここ1年ぐらいほぼ自分で作っています。 ――家族で暮らしてたのが一人になって、やはり寂しさはありましたか? 高橋:もちろんですよ。一番辛いのは孤独なんじゃないかなって。俺だけじゃなくてね。人って孤独ってやっぱ辛いなとは思いましたよね。 ――自分のこういう所がよくなかったとかありますか? 高橋:あり過ぎて。これだっていう決定打がないくらい。 結婚している時に夫婦でやっている仕事も多かったから、帰りの車の中とかで、ものすごい反省会をするんです。その話をいろんな芸能人の方にすると「それは嫌だわ」って。(普通は)帰るときにはオフにして、もうニュートラルにしたいわけじゃない?だから、よかれと思っていても、相手にとっては辛いってことがいっぱいあったんだと思う。 娘の絵に支えられた10年「パパは一人じゃないよ。泣くな。頑張れ」 家族で住むために建てた家に一人で暮らす高橋。この10年の孤独を支えたものは、娘が描いた絵だ。 ――この絵はなんですか? 高橋:これを支えに生きてきたというか。これは(娘が)出ていく前に“パパにメッセージ”“パパは一人じゃないよ。泣くな。頑張れ”って。娘が描いてくれた絵。 ――10年間そのままにしてきたんですね。 高橋:まんまです。よく消えなかったなと。変な話、1時間に1回は思い出すよ。あれ?本当に俺結婚してたっけ?とか。あれ本当に子どもいたっけ?って思う瞬間があるんですよ。その時は絵を見て確認するというか。励ましになります。 事務所に届いた娘からのメール…そして再会へ 「娘にいつか会える」。そう信じていた高橋のもとに届いたのは1通のメールだった。 高橋:こんなことあるんだなと思ったけど、ちょうど10年目の2024年3月23日に事務所のメールを開いたら、娘の名前でメールが来てたのよ。「これなりすましかな?」と思ったけど、「お元気ですか?」みたいな、他人行儀なメールだったけど。「その後、会ってませんけど」みたいな。そして東京でちょっと暮らしてみようかって。 ――会えたわけですね。…
《元カレミュージシャンやじゃいの投稿へ違和感》中山美穂さん急逝で「追悼コメント」が波紋 SNS時代には「何を言うか」より「何を隠すか」が愛情
誰でも思ったことを即発信できるSNS時代。だからこそ、言わない方がいいことやタイミングへの配慮が必要なのではないか。有名人批評や夫婦に関する問題について執筆活動を行うライター・仁科友里さんが、中山美穂さん急逝に際しての有名人たちの追悼コメントについて考察する。 女優・中山美穂さん急逝のニュースは、日本中に大きな衝撃と悲しみを与えましたが、同時に「SNS時代の追悼の難しさ」について、考えさせられたのでした。 中山さんが亡くなってから、仕事やプライベートなどの関りがあった人が、次々に追悼コメントを発表しています。それらは中山さんの芸能界における功績の大きさや愛される人柄を裏付けるものと言えるでしょう。しかし、こういったコメントがネットニュースとなり、SNSで拡散されて、一般の人もそれに関してつぶやき、大きなうねりとなっていくことに、一抹の恐怖も感じるのです。ですから、追悼コメントを出す際には、亡くなった方との関係性はもちろん、コメントの内容に関しても慎重になるべきではないでしょうか。 追悼コメントを出すにふさわしいオフィシャルな関係 まず、追悼コメントを出すのは、オフィシャルな関係の人だけでいいのではないかと思うのです。オフィシャルとは何かといえば、本人が関係性を公言しており、世間にもその人との関わりが広く認知されていることが条件と言えるでしょう。 たとえば、中山さんは作家の辻仁成さんと結婚し、後に離婚しましたが、辻さんは訃報を受けて、ご自身が編集長を務める「DESIGN STORIES」において、中山さんのことだと明言しないものの「不意の悲しいお知らせがあった」と書いています。おふたりの間にはお子さんがひとりいて、辻さんと暮らしていますが「できれば、みなさん、息子も頑張っているので、そっとそっと、見守ってやっていただけると、まじで、父ちゃんは嬉しいのである」と結んでいます。離婚をしたわけですから辻さんと中山さんは“他人”なわけで、コメントを出す義務があるわけではないでしょう。けれども、父親として、母親を亡くしたお子さんの気持ちを守りたいという気持ちから、このようなコメントを出したのではないでしょうか。 工藤静香さんも追悼コメントを寄せていますが、1987年放送の中山さんが主演のドラマ「おヒマなら来てよネ!」(フジテレビ系)で工藤さんは共演していますし、当時のアイドル雑誌を見ると、おふたりは仲良しとしてよく誌面にも登場していました。公私ともに親しかったオフィシャルな関係と言えるでしょうから、追悼コメントを出すのにふさわしい間柄と言えると思います。 意味深な渋谷氏のコメントに苦言 反対に、それはあなたの胸にとどめてほしかった、もしくは言い方をちょっと考えてほしかったと思う人もいるのです。作曲家の渋谷慶一郎氏が、X(旧ツイッター)に「いつか日本で飲んでるときにばったり会って『最近どうよ』とか話せたらと思っていた。それが叶わなくなったのはさみしいけど、死はいつも待ってくれない。色々ありがとう。勉強になったし、短い間だったけど、すごく楽しかった。3人分くらい生きたと思うから向こうはゆっくり休んで」と投稿したのでした。この投稿が誰に対してのことなのか名言されていませんが、中山さんの訃報が出た後であり、おふたりは過去に交際していたことから考えると、元カレとしての追悼コメントだと推察できるでしょう。 2014年10月号「美ST」において、中山さんは離婚の経緯について明かしています。子宮筋腫を患っており、調子がとても悪かったときに渋谷氏に出会ったこと、渋谷氏が手術の手配や付き添いなどもしてくれたことで、渋谷氏への思いが強くなり、結婚生活を続けることができなくなったそうなのです。 離婚後、お子さんは辻さんと暮らすことになりましたが、これは離婚の条件がお子さんの親権を手離すことだったためだと、かなり踏み込んだ話をしています。結婚生活に疲れたから好きな人が出来たのか、好きな人が出来たから結婚生活が嫌になったのか、今となってはわかりませんが、離婚までの一連の経緯は世間には好意的には受け止められず、中山さんがバッシングされたと記憶しています。 以降、渋谷氏との交際はオープンなものでしたが、中山さん自身がX(旧ツイッター)に相手が誰かは明言しなかったものの、「ひとりでいるほうがストレスないならそれがいい。一緒にいるけど浮気はするよ、なら言ってくれ」と書き込み、破局を匂わせています。この投稿が渋谷氏のことを指しているとは限らないわけですが、当時は離婚したら母親が親権を持ち育てるのが当たり前と思われていたこともあって、「子どもを捨ててオトコに走ったら、オトコに捨てられた」という不名誉な言われ方をされていました。渋谷氏にとって中山さんとの恋愛はかけがえのない思い出であり、だからこそ、つぶやかずにはいられなかったのかもしれません。しかし、そうすることで、過去の余計なことが掘り起こされてしまうように思うのです。 特に現代はおふたりが交際していた頃とは比べ物にならないくらい、不倫などモラルに反することに対して厳しい視線が注がれる時代です。かつて愛した人の名誉を守るため、近しい人とだけその気持ちをわかちあって欲しかった、SNSでつぶやかないで欲しかったと思うのは、センチメンタルすぎる願いでしょうか。 余計な憶測を呼ぶエピソードも考えもの もう一つ、気になるのが芸人・インスタントジョンソンのじゃいさんの発言なのです。2024年9月26日放送「アウト×デラックス2024 世界中の誰よりアウト終結SP」(フジテレビ系)において、中山さんはインスタントジョンソンのじゃいさんを“妹的存在”だと明かしています。つまり、じゃいさんとはオフィシャルな関係と言えるでしょう。 しかし、そのじゃいさんのSNSの投稿を見ていると、ちょっと配慮が足りないなと思ってしまう。たとえば、じゃいさんと友人との会食で中山さんと知り合ったそうで、親しくなった経緯をXにこう綴っています。「焼肉食べて、その後にカラオケバー的なところに行って、なぜか途中で友人が帰ってしまい、さすがにと思い、酔っている彼女を家まで送っていった。夜中3時くらいだったかな」 じゃいさんは忠実に過去を振り返っているのでしょうが、今明かすエピソードではない気がします。 所属事務所は中山さんの死因を、浴室での不慮の事故だと発表しました。しかし、じゃいさんが“深夜の泥酔”などの飲酒エピソードを明かすことで、「中山さんはお酒が好きだから、泥酔してお風呂に入り、事故にあった」と結び付けてしまう人が出てくることは想像に難くないからです。中山さん本人から「親しい」というお墨付きをもらったじゃいさんだからこそ、情報は信ぴょう性が高いとみなされ、勝手な解釈と共に拡散されてしまいます。 そう言ったことを避けるためにも、SNS時代の追悼とはありし日の姿を「何でも話す」のではなく、「何を隠す」のかがポイントになってくるのかもしれません。 人が生きていればいろいろありますし、ましてやスターなら人に言えない話や事情を山ほど抱えていたとしてもおかしくない。けれど、そんなことはまるでなかったかのように、最初から最後までキラキラ輝いていたスターとして送り出すという愛情があってもいいのではないでしょうか。中山さんのご冥福をお祈りします。 ◇仁科友里/フリーライター。著書に『間違いだらけの婚活にサヨナラ』(主婦と生活社)。
「白血病の疑いがあります」歌手・井上あずみ 3歳の娘を襲った突然の病…「病室で歌った『さんぽ』で子どもたちに力をもらい」
『君をのせて』や『となりのトトロ』を歌う歌手・井上あずみさん。39歳で娘・今尾侑夕(ゆーゆ)さんを授かります。3歳のときに2週間ほど発熱を繰り返した娘を病院の診察に連れていったところ、医師から衝撃的な言葉を伝えられます。(全4回中の2回) ■妊娠発覚と同時に「双角子宮」が発覚し ── 井上さんは現在のマネージャーでもある今尾さんと結婚、39歳で娘さんを妊娠されたとき、子宮奇形である「双角子宮」が発覚したそうですね。 井上さん:すでに高齢出産の年齢でしたし、なかなか妊娠できなかったのですが、奇跡的に妊娠したんです。妊娠してクリニックに行って初めて私の子宮は「双角子宮」といってハート型になっていることが判明しました。女性は子どものころはみんなハート形をしているそうですが、大人になるとひとつのお部屋になるところ、私の場合は繋がってはいるけどふたつにわかれた形のままだったんです。実は生理が月に2回来る体質だったのですが「そういう人もいるよね?」と、のんきにとらえていて(笑)。39歳にして自分の子宮の事実を知りました。先生からも「妊娠してからわかる人は珍しいですよ」と言われたくらい。通っていたクリニックではだめだったので、大きい病院を紹介されたんです。 ── 奇跡的な妊娠で歓喜されたことと思います。お仕事もセーブせねばという状況だったのでしょうか。 井上さん:それが妊娠したとたんに仕事が急激に増えたんです。よく言いますよね、「子どもは米びつを背負って生まれる」って。その言葉どおりでした。高齢でしたし予定帝王切開で産むことが決まっていて、いつまで仕事をするかと考えていたところだったのですが。それまで仕事をしたくてたまらない人生でしたから、もっとどん欲にやりたいと(笑)。不思議なくらいあれよあれよという間に産休に入るまでのスケジュールが埋まり、空いてる日がもう2日間だけという状況に。そして、なんと最後の最後にドンピシャでその2日間も仕事がきまったんです。しかもすべて新幹線移動で済む距離のお仕事で、飛行機移動はなしというのも奇跡でした。なんだか後にも先にもこんな都合のいい仕事の入り方することはありませんでしたので、子どものパワーなのか、いま振り返ってみても本当に不思議です。 ── 臨月は夏だったそうで、猛暑のなかお腹が大きい時期はお仕事も大変でしたよね? 井上さん:さすがにお腹が張る日もありました。でも仕事先で会う子どもたちはお腹を触ってくれたり、話しかけてたりするんです。「赤ちゃんがいるのー?」って。それがすごくいい胎教になってくれましたね。『さんぽ』を歌うと動くし。娘は今でも「ママの歌を聞くと眠たくなる」と言います(笑)。 娘は逆子で生まれ、低体重だったので数日は保育器に入りました。私は出血が多く、輸血をしました。やはり出産は命がけです。でも、1か月後には次のレコーディングが決まっていたので。なんとかそれまでに復帰をと、頑張りました。レコーディングの流れでイベント出演が決まり、結局そのまま仕事に復帰しました。 ── 井上さんも、マネージャーを務める夫の今尾さんも同じ仕事現場に向かうことになりますよね。復帰されたあと、娘のゆーゆさんはお仕事に同伴されたのですか? 井上さん:マネージャーの夫が1年間の育休を取りました。それで別の現場マネージャーと仕事へ行くかたちに。小さく生まれた娘がしっかり育つよう、どうしても母乳で育てたかったので、仕事に行く前には搾乳して、冷凍して…とやっていましたね。ただ、仕事先ではどうしても胸が張って母乳を捨てないといけないのはつらかったですね。 ■発熱で受診した病院で「白血病の疑いがあります」 ── 娘のゆーゆさんは、3歳で白血病と診断されたそうですね。発覚したときのことを教えてください。 井上さん:はじめは風邪かなと。熱が下がらなくて2週間近く発熱を繰り返したので病院へ。もともと色が白い子だったんですが、先生に「いつも青白いですか?」と聞かれて。「今のこの子の雰囲気を見て、僕の直感ですけど、白血病の疑いがあります。脊髄に注射針を刺すのはリスクがあるけど、僕は調べたほうがいいと思う」と言われ、検査をお願いしたんです。 先生の直感が的中して、急性リンパ性白血病とわかりました。あまりの衝撃的な病名に夫婦でショックを受けましたが、紹介された大きな病院では「その先生はお手柄でしたね。この段階でよく見つけてくれたと思います」と言われました。「この状態で来るのと、半年~1年経過してから来るのとでは全然違う」と言われて、少し救われた気がしました。 発見したのは発症から推定で3か月以内とのことでした。通常は1年くらいしないと発見されないものらしく、悪化する前にわかったわけです。ですから、血液にはまだ白血病の数値が現れる段階ではなかったので、血液検査でわかるものではなく、最初の先生のカンで骨髄の検査を受けることができて、本当に運がよかったです。 ── とはいえ、ゆーゆさんの治療はおつらいことも多かったと思います。どのような治療だったのでしょうか。 井上さん:半年くらい入院しました。プレドニンという、血中の白血球だけが死滅していく薬なのですが、それを使って限りなく白血球をゼロに近い状態に落として、戻すというのを3回繰り返すことで、がん化した白血球を死滅させるという治療でした。 髪の毛は全部抜け落ちましたが、それよりも肝臓や腎臓に負担がかかることが怖かったです。持ちこたえてくれないと治療に耐えられなくなるので。かわいかったお顔がムーンフェイスと言ってパンパンに腫れました。薬をやめたら戻るんだとわかっていながらも見ているのはつらかったですね。その治療に対して娘は優等生で、先生が計画していた理想通りの効果がありました。 白血病は脊髄の中に潜んでいて、治ったと見せかけてまた出てくる。そのため、脊髄を直接抗がん剤で洗うという治療もやりました。娘は5回中の2回目で自律神経に影響が出てしまい、「目がクルクルする」と言い出したんです。それで脳を調べるとモヤができていたので中止することになりました。このまま続けるかやめるかは賭けでしたけど、脳のモヤも次第に戻り、さいわい再発もなく寛解しました。 入院中は娘を置いて仕事に行かないといけません。ずっとつき添ってあげられなかったことがつらかったですし、娘にもかわいそうな思いをさせました。娘は4人部屋だったんですけど、みんな大変な病気を抱えて頑張っていて、私が病室に行くと「ゆーゆママーっ!」と喜んでくれて。外に出られない子たちにとってDVDで観るトトロは人気で『さんぽ』を歌うと本当にうれしそうに聴いてくれて、笑顔をもらいました。そんなみんなに、私のほうこそ力をもらいましたね。 ■小さい娘が「私も歌手になろうかしら?」…