2024年12月19日、読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏が98歳で死去した。理想の“死のかたち”を14名に語ってもらった『 私の大往生 』(文春新書)から、渡邉恒雄さんのインタビューを公開する(肩書き・年齢などは、いずれも当時のもの)。 主筆室でポックリ死んでいて、秘書に発見される ――93歳(2019年)にして読売新聞グループの代表取締役、そして主筆を務める渡邉恒雄氏。 政治記者として名を馳せ、巨人軍オーナーとなった1990年代以降は世間でも「ナベツネ」としてその存在を知られ、しばしば「独裁者」と称された。しかし今回(2012年)、自らの「死」を語る表情、口調は、そんなイメージからは程遠い、実に穏やかなものだった。 渡邉 理想の死に方、これは達者でポックリ、意識しないうちに死ぬというのが良いに決まってる。この部屋(主筆室)で死んでいて、秘書が発見する。これなんか、いいんじゃないか。 だけど現実的には、なかなかそうはいかない。病死だろうね。 僕が非常に尊敬している、戦後二代前の社長の務台光雄さん。この人の臨終に立ち会ったんだが、病室に駆けつけたのは僕が最初だった。 その時は既に脳死状態で、心臓だけを機械で動かしている状況だったんです。 それで3人の遺族が到着して、機械のボタン押したら、スッと心臓が止まった。 この時、非常に人間の尊厳が冒されてると思ったね。僕は機械的延命っていうのは絶対にお断りだな。 20年くらい前に、Mさんという有名な医師がいて、この人の母親が死んだ時、僕に手紙をくれた。母親が非常に苦しんでいるのを見かねて、ポララミン(アレルギー薬)を静脈注射したら、苦痛なしに直ちに逝けた、つまり人工的に死に至らしめたと。 考えようによっちゃ非道徳的なのかも知れないが、苦しみながら延命させるっていうのは善じゃないと思うね。 だから僕も命を縮めてもいいから、注射を打って苦しまず安らかに、眠るように死なせてもらいたい。 まさに死ぬという時に聞きたい曲 ――もう1つ望みがあるんだ、と渡邉氏は席を立ち、ある箱を持ってきてくれた。その中には「渡邉恒雄葬送曲目集」と書かれた5つのテープが入っていた。 渡邉 音楽を聞きながら死にたいんだ。まさに死ぬ時に聞きたい曲が2通りある。 1つはチャイコフスキーの交響曲「悲愴」。 19歳の時、軍隊に徴兵されて、明日から入営という前の晩に、旧制高校の後輩が10人くらい僕の家に来た。お袋がかき集めてきた「武運長久」というお守りを11枚、みんなの前で火鉢にくべたんだ。こんなバカなものと、お袋には内緒でね。 それを焼いた後、俺の葬送行進曲を聞け、と聞かせたのがこの「悲愴」だった。当時のレコードはSP盤で、手巻きの蓄音機。しかも金属の針がないから、竹を削って尖らせた竹針で聴いた。死に向かう自分にふさわしいと思えるんだな。 もう1つは、(今回の)インタビューの前に考えた。「悲愴」というのは本当に陰々滅々とした、悲劇的な曲。だから、モーツァルトの「ディヴェルティメント第十七番」。これは明るく楽しいから聞きながら死ねば、気が楽だろう。死ぬ直前にどちらをかけるか決めたいね(笑)。 音楽葬テープには、葬式で流してほしい曲が入っている。グリーグのペール・ギュント組曲の「オーゼの死」とか、シベリウスの「悲しいワルツ」とか。そしたら後になって当時の専務が、「渡邉さん、一周忌用作ってきました」とテープ2つ持ってきたんだ(笑)。これがまた、僕のあまり好きじゃないバッハとか、古い曲が多い。「余計なもの作ってきたな」と思ったんだが、しょうがないから一緒にしてあるよ。 ――渡邉氏は東大入学後の1945年に徴兵された。この時、初めて死を意識したという。 渡邉 僕は8歳の時に親父を亡くした。ある日、家に帰ったら親父が入院していて、1週間後に生まれて初めてタクシーに乗って、病院に行った。「おお、恒雄来たか」とだけ、言ってくれたが、それで意識を失って死んでしまった。でも、当時はまだ死というものがよくわからなくてね。何かまだ、どこかに親父がいるような気がしていた。 だから初めて死を感じたのは戦争。あれは全く、死を感じたね。誰だってそうだ、負けるに決まってるんだから。